2008年3月27日木曜日

Fw 書評:やさしい統計学

書評:やさしい統計学
やさしい統計学

入手しました。
ぱーっと見る限り、普通の統計の本です。

章末毎に答えのない練習問題が計50個ほどあります。
普通に考えて、早稲田MBA入学後にあるテストでは、
この中からでるでしょう、きっと。
(わざわざ新しく問題を作るのも面倒でしょうし)
ということはこの50の問題(似たような問題も結構あるので
時間がなかったらもっと少なくても良いかも)を
解いておけば良い訳ね。
でもって、ノートPC持参OK(関数電卓も可とありましたが、
さすがに持ってくる人はいないでしょう。。)なので、
計算過程をExcelでやってればいいでしょう。

あとは、答えがないので、自分でやっても
間違っている可能性があるということ。
さぁどうしましょう?>2006年早稲田MBA入学者のみなさん(笑)

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現在、この本のAmazonの「この本を買った人はこんな本も買っています」は以下の通り。
これを見ると、早稲田MBA or ウインドミル関連? or MBA関連のBlog関連? かな?

Amazonより
この本を買った人はこんな本も買っています
* 戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ日経ビジネス人文庫 三枝 匡 (著)
* エッセンシャルズ・オブ・アカウンティング 英文会計の基礎 ロバートN. アンソニー (著), et al
* 実学入門 経営がみえる会計―目指せ!キャッシュフロー経営実学入門 田中 靖浩 (著)
* 日本の論点2006文春ムック 文藝春秋 (編集)

2008年3月18日火曜日

中国、中米間に世界初の「コンテナ電子タグ」国際航路を開通

2008年03月12日
中国、中米間に世界初の「コンテナ電子タグ」国際航路を開通
中国は10日、上海港-米国サバンナ港間に世界初の「コンテナ電子タグ」国際航路を開通させた。これは、コンテナにインテリジェンス電子タグを取り付けたもので、モデル航路となる。

同航路は、電子タグを通じてコンテナに対する全行程でのリアルタイムなオンラインコントロールを実施するもので、コンテナ物流チェーンの全てのポイントにおいて、システムサイト上で物流情報を随時チェックすることが可能となる。

コンテナ運輸はグローバル性を有しているため、現在、コンテナを利用した密航や密輸、テロ事件といった行為が、各国の経済や社会の安全に深刻な影響を及ぼしている。このため、コンテナ物流の全行程でリアルタイムのオンラインコントロールを行うことが、さらに重要となっている。また、コンテナは海上運輸の周期が長いため、貨物運輸と保管における多くの部分で食品の安全問題が起こりやすいため、食品の物流過程の安全監督の強化も議事日程に挙げられている。

紹介によると、上海港とサバンナ港は、昨年11月から今年1月にかけ3回に分けて「ポート・ツー・ポート」「ドア・ツー・ドア」の2つのプロセスにおける実船テストを実施している。テストの結果、システムの運行は正常で、コンテナと貨物などのデータはいずれも電子タグに正確に入力することができ、入力されたデータは無線LANを通じてデータセンターへ送られ、合法と非合法に開かれたコンテナの時間と地点は、いずれも正確に記録されており、システムサイトにリアルタイムで表示された。(日中経済通信)

2008年3月17日月曜日

世界名牌大学课件下载地址

世界名牌大学课件下载地址
一、伯克利

加州大学伯克利分校 http://webcast.berkeley.edu/courses.php

作为美国第一的公立大学,伯克利分校提供了许多优秀教授的播客和视频讲座,可以跟踪最新的讲座。想看教授布置的作业和课堂�记,可以点击该教授的网页,通常,他/�都会第一堂课留下网址。实在不行,用google搜搜�!

  伯克利的视频都是.rm格式,请注意转换

  二、麻省

麻省理工学院 http://ocw.mit.edu/OcwWeb/web/courses/courses/index.htm

麻省理工是免费开放教育课件的先驱,计�在今年把1800门课程的课件都放在网站上,提供课程与作业的PDF格式下载。三是,麻省理工只提供少数的视频讲座。坐过学生上麻省有一个绝对优势,麻省理工在中国大陆和中国台湾都建立了镜像网站,把麻省的课程都翻译成立中文。鉴于PDF格式,推荐使用FoxIt Reader。

  www.core.org.cn(中国大陆)推荐

  www.myoops.org(中国台湾)

二、�耐基梅隆 http://www.cmu.edu/oli/

�耐基梅隆针对初入大学的大学生,提供10门学科的课程视频。与其他大学的免费课程一样,非�耐基梅隆的学子能学习课程,但是为了使学生能够及时了解自己的课程进度,�耐基梅隆建议造访者在网站上注册,建立自己的资料库。这样一来,�得在有限的时间内完成一门课程,还要参加几次考试,当然,即使�得了100分,�耐基梅隆也不会给�开证明,更不会给�学分。

四、犹他

犹他大学 http://ocw.usu.edu/front-page/Courese_listing

犹他大学类似于麻省理工,提供大量的课程课件

2008年3月10日月曜日

[共謀罪についての基礎知識]

[共謀罪についての基礎知識]
[基礎知識]共謀罪創設でテロを未然に防げるか?



犯罪を実行しなくても罰せられる理由
 自民党総裁選を間近に控えた〇六年九月、安倍晋三官房長官(当時)は党東北ブロック大会に出席し、総裁就任直後の臨時国会で、共謀罪を新設する「組織犯罪処罰法改正案」の成立を目指す意向を明らかにした。同法案は過去二度の廃案を経て、継続審議となっていた。なぜ政府はそこまで執着するのか――同長官は、共謀罪新設の根拠を、国連が採択した国際組織犯罪防止条約の締結に伴う国内法の整備だと説明し、〈テロを未然に防ぐには、世界各国が協力することが大切。条約を結んでいる以上、国内法を整備する責任を果たすべきではないか〉(東京新聞〇六年九月四日付)と法案成立への意欲を語った。
 刑法六〇条の「共謀共同正犯」は、犯罪の実行がなければ適用されない。しかし共謀罪が新設されると、実際に犯罪を行わなくても犯罪を計画した段階で処罰される。
 〇六年一月時点で処罰対象となるのは、内乱、殺人、傷害、窃盗、収賄、詐欺など、四年以上の懲役、禁固刑を定めた六一九種類の罪。主要な犯罪類型のほとんどが該当する。複数の人がそれらの行為を謀議して、合意にいたった場合、最高で懲役・禁固五年の刑に問われる恐れがある。


共謀罪をめぐる与野党の論戦
 法案が国会に提出されたのは〇四年二月。当初は、「共謀」の概念がかなり広義に解釈されたり、適用する組織や団体を、テロや暴力団などの組織的犯罪集団に限定することが条文に明文化されていなかったため、各方面から「治安維持法の復活だ」と批判された。与党からも疑問の声があがり、〇五年八月の衆院解散により廃案となった。
 〇六年四月、自公両党は衆院法務委員会に修正案を提出し、「犯罪の実行に資する行為が行われた」時点で共謀罪が成立すると改めた。さらに翌月には再修正案を提出。共謀罪の適用団体の要件を「組織的な犯罪集団」と明示した。ただしその定義は「その共同の目的が犯罪を実行することにある団体」と曖昧なままで、従来と変わっていない。
 また、共謀罪の構成要件についても「犯罪の実行に資する行為が行われた」という表現から「犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた」に修正。「日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に制限してはならない」「労働組合その他の団体の正当な活動を制限することがあってはならない」などの文言をつけ加えた。
 一方、民主党は適用の罪種を三〇六種類に絞り、適用団体を「国際的組織犯罪集団」と明示する修正案を提出した。その後、与党側でも、国際的な犯罪に限定すべきとの意見が強まったため、一時は民主党案を丸飲みして成立するかに見えたが、結局、適用する犯罪や団体をめぐり調整がつかず、協議は決裂。〇六年六月、同法案は先送りとなった。

検察出身者からも批判続出
 政府は、「共謀罪の対象はあくまでも犯罪集団であって、普通の市民団体や労組に適用することはない」と説明してきたが、いくら法案に修正を加えても、共謀罪創設を疑問視する声は根強い。法務・検察当局の元高官からも批判が出ているほどだ。
 元東京地検公安部検事の落合洋司氏は、共謀罪の適用団体の定義の曖昧さについて、〈そもそも一から十まで犯罪が目的という集団などない。一時的に犯罪目的を持てば適用対象にする可能性が高い。法務省はかなり限定したように言うが、判断するのは法務省ではなく裁判所だ〉と指摘し、〈一般の人は捕まりません、などと国会で言っているが、NGOや労組が、一時的に捨て身の行動を取ることもあり得るのだから不確定だ〉(東京新聞〇六年五月二四日付)と述べている。
 刑法学界では、かつて「共謀共同正犯」の概念が批判の対象になっていた。これは二人以上で犯罪行為を共謀し、そのうちの誰かが実行してしまうと、直接手を下さなかった共謀者も同罪に問われるというものだ。学界の圧倒的多数がこの理論に反対していたとき、ひとり是認する立場を貫いたのが元早稲田大学総長の西原春夫氏だが、その西原氏でさえ容認できない、恐ろしい最高裁判決が〇五年一一月に出たという。それは、配下の組員に拳銃を持たせたとして銃刀法違反の罪に問われた暴力団組長に、最高裁が共謀共同正犯を認定した判決である。
 西原氏はこうした判決の延長線上に共謀罪「濫用」のリスクを見通し、次のように警鐘を鳴らす。〈共謀罪を審議した衆院法務委員会では「目配せでも共謀が成立する」ことが話題になった。だが、この最高裁決定によれば「目配せ」すら必要ない。「被告は組員が拳銃を携帯していることを、概括的とはいえ確定的に認識し認容していた」としており、問われているのは内心だけだ。こうした現実を前にすれば、いかに要件を絞ったとしても、共謀罪には首をかしげたくなる。(中略)共謀処罰の基準が破られているからだ。与野党の修正案では、共謀罪の適用対象は、テロリストや暴力団などの組織的犯罪集団だけとされた。「それなら多少は法の適用が厳しくなっても構わない」と世論は言うかもしれない。しかしそのような集団に例外を認めれば、いずれ他にも及ぶ。先の例で、組長が罪に問われるなら、例えば、運転する部下が免許不携帯であることに薄々気づきながらも車に同乗し続けた上司も、理論的には罪に問われるのと同様だ。はたしてそれで良いのか。法律が限りなく道徳に近づいてしまう〉(朝日新聞〇六年六月一三日付)


共謀罪はテロ対策に不可欠か
 しかし個人犯罪を前提とする現行刑法は、テロに代表される組織犯罪や大規模破壊行為を十分に想定してこなかった。それが万一、周到な計画と役割分担のもとに実行された場合、被害は計り知れない。
 生命の安全を守ることを優先するか、それとも思想信条の自由を優先するか――桜美林大学の加藤朗教授(安全保障論)は、共謀罪の新設をめぐって、日本社会は重大な選択を迫られているという。〈無差別爆弾の作り方を教えた人間は処罰されなくていいのか。危険な薬品が管理されているように、危険な知識も管理されるべきではないのか。何らかの法律は必要だろう。ただし運用は厳格な枠にはめられなければならない〉(東京新聞〇六年五月一〇日付)
 慶応大学の加藤久雄教授は、市民団体などが共謀罪を不安視するのはしかたないとしながらも、〈人身売買やテロなど国境を越えた組織犯罪が悪質化する中、日本が国際社会と歩調を合わせるのは当然だ。自国さえよければいいとは行かない。八万五〇〇〇人にもふくれあがり、資金源拡大を求めて海外でも活動する暴力団を放置してよいのか。テロは起きてしまってからでは遅い。例えば旧オウム真理教関係者が教祖を救い出そうと動くおそれもある。予備段階で摘発し、犯罪を防げるようにする必要がある。越境的組織犯罪防止条約に批准しないと、日本は国際的犯罪組織の中継国になる。アルカイダが日本で基地を作る場合を考えれば犯罪集団を作っただけで処罰できるようにしておく必要がある〉(朝日新聞〇六年六月一三日付)と指摘する。
 〇六年九月、長勢甚遠法相は安倍内閣発足後初の記者会見において、「与党とよく相談しながら、(組織犯罪処罰法改正案の)早期成立に全力を挙げたい」と、共謀罪創設への決意を示した。

共謀罪が標的にしているのは、国際犯罪よりむしろ国内の市民である

論 点 「共謀罪は必要か」 2007年版

共謀罪が標的にしているのは、国際犯罪よりむしろ国内の市民である

おおたに・あきひろ
大谷昭宏 (ジャーナリスト)
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継続審議、廃案を繰り返した法案
 小泉政権最後の国会となった第一六四通常国会で審議された法案の中で、与野党で厳しい論議がなされたものの一つに共謀罪がある。結果的には閉会間際に、政府・与党が民主党の修正案を丸呑みするという前代未聞の奇手に打って出たが、直後に与党幹部が「法案さえ通しておけば、あとでいくらでも修正がきく」と、本音を吐露してしまったことから、本会議での採決に至らず、継続審議となって安倍新政権へと引き継がれた。
 この共謀罪、二〇〇三年(平成一五年)五月以降、何度も国会審議にかけられ、そのたびに廃案、または継続審議を繰り返し、とうとう一六四国会でも日の目を見なかった。それだけに安倍政権にとっては可決成立が急務であり、同時に民主党など野党にとっては、これをいままた廃案に持ち込めるのか、あるいは相当の修正を加えられるのか、その力量が問われている。
 では、この共謀罪がこれほどの論議を呼ぶ理由はなにか、その問題点は何なのか、ここでは簡単に触れておく。
 共謀罪は正式名称で言うと「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」に組み込まれている「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律の一部改正」(組織犯罪処罰法改正)の中に新たに設けられようとしている法律のことである。
 では、なぜ、日本の国会でこの共謀罪を審議することになったのか。それは二〇〇〇年一一月、国連が国境を越えたテロリスト、マフィアなど組織犯罪集団に対して効果的にその犯罪を防止することを目的に、総会で「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(国際組織犯罪防止条約)を採択、日本もこれに署名したことに始まる。
 この条約の第五条は条約批准にあたって組織犯罪集団への参加罪か、組織犯罪集団の中で謀議する共謀罪のいずれかを国内法で整備するよう義務づけている。日本はこの条約の草案が起草されたころには、共謀罪は日本の法体系にはなじまないとして、反対の意向を示していたといわれているが、なぜか、法務当局は、先の組織犯罪処罰法改正案が審議されるころから、一転、共謀罪の新設を強く主張、国会論議の中で継続審議、廃案が繰り返されているのだ。


計画を話し合っただけで罪になる
 では、共謀罪とは、どういう法律なのか。きわめて簡単明瞭に表現するなら「犯罪を二人以上で話し合っただけで罪になる」というものである。
 あらためて言うまでもなく近代法は、人を罪に問うのは、その行為があったときと限定している。その行為の中には犯罪を成し遂げた既遂と、行為を遂行できなかった未遂がある。さらに殺人や、強盗、放火といった重大犯罪についてのみ、行為がなくても、その準備をしたというだけで罪に問える予備罪を設けている。だが、この予備罪についても、われわれの先人は、より慎重であるべきだとして、現代法では、せいぜい三〇ほどの罪種に限ってこれを認めているのである。
 ところがこの共謀罪は、行為はもちろん準備さえしていない、ただ、計画を話し合っただけで、その時点で罪に問えるというものなのである。
 先の国会に法務当局が提出した法案によれば、この共謀罪によって罪に問える罪種は、長期四年超の刑(懲役、禁固)を定める犯罪で、これらを共謀した場合には、原則懲役二年以下、死刑・無期・長期一〇年以上の刑期の犯罪については懲役五年以下に処するとなっている。
 この規定に沿えば、なんと現行法の六一九もの犯罪がその対象となる。万引などの窃盗はもちろん、マンション建設反対運動でピケを張ることが組織的威力業務妨害にあたるとすれば、事前にそのピケに合意しただけで、罪に問われることになる。そのほか、堕胎罪、競馬のノミ行為、酒の密造、およそ国際犯罪とは縁もゆかりもない犯罪も、話し合っただけで懲役となるのだ。
 だとすれば、より慎重にと考慮して設けられた予備罪はどうなるのか。共謀罪を適用すれば、単独の殺人は検挙できなくても、万引は相談の段階から逮捕、起訴できることになってしまうのだ。

条約批准は法案成立を急ぐ口実
 重ねて言うが近代法で罪に問えるのは、行為があったときが大原則である。そうでないと「あの連中は暴力革命を望んでいるらしい」という情報だけで、誰をも罪に陥れることができる。法は人の心、人の会話にまで入り込んではならないのである。
 なのにこの法案と関わりの深い法務、警察当局は、条約が「この条約適用に当たっては、犯罪を越境性のあるものに限定してはならない」と規定していることを奇貨として、なぜ、六一九もの罪種にまで手を伸ばして広く共謀罪を適用しようとしているのか。
 その点を解き明かす鍵は二〇〇〇年の国連総会採択当時、共謀罪は日本の法体系にそぐわないとしていた法務当局が、〇三年以降の国会審議の中で突然、共謀罪を持ち出した点にあるとみるのが妥当なようだ。つまり政府・与党は国際犯罪防止という国際、国内世論に乗りつつ、その一方でこの条約批准にかこつけて、広く国内犯罪を防止、抑止できると踏んだからなのである。
 論拠の一つとして、私が一六四国会閉会直前に行った、この法案を審議してきた衆議院法務委員会筆頭理事とのインタビューがある。国会における政府側答弁のように、国際性のない一般市民の犯罪まで視野に入れての法案ではないというのであれば、なぜ、労働組合や、NPOを含む市民団体について、はっきり除外すると明記しないのか。このごく当たり前の質問に対して、筆頭理事は労働組合に関しては考慮するとしつつも、市民団体については、後の修正案を含めて、頑として除外の対象とはしなかったのである。


摘発はまず市民団体から始まる
 では、このような状況下で共謀罪が強行成立したらどうなるか。あれほどの難産の中で法を成立させておいて、何年にもわたって摘発ゼロでは、警察への風当たりは当然強くなる。
 こうした事態は、ではどういうことを引き起こすのか。ここで、共謀罪のもう一つの特性をあげておきたい。
 前述のように、共謀罪は人々の謀議を罪に問うものである。あくまで話し合いなのであるから、そこに確たる証拠はない。捜査の端緒をつかもうとすれば、仲間内の密告、つまり裏切りか、あるいは、あらかじめ捜査当局がスパイとして組織の中に捜査員を潜入させておくか、あとは盗聴である。そのために、この法案では自首減免措置を設けて、謀議段階で自首してきた者は罪に問わない、いわば裏切りの勧めを規定しているのである。
 といって、おいそれと国際テロ組織や、マフィアがこんな網に引っ掛かるわけもない。彼らは裏切りや、スパイにはより敏感だし、それが発覚すれば、待っているのは抹殺である。第一、日本の警察官がやすやすと、国際テロ組織に潜入できるはずもない。
 ならば、摘発ゼロの風当たりをかわそうとする捜査当局はどのような手法を取るのか。少なくとも数年のうちに暗黙のうちに課せられたノルマを達成しようとすれば、捜査員の目は警戒の厳しいテロやマフィア組織より、市民団体に向けられることは、自明の理である。不特定多数の人々が信頼のもとに集まる市民団体が厳しいガードを敷くことは事実上、不可能だ。
 かくして市民団体の中には、疑心暗鬼、猜疑心が渦巻いてくる。では、共謀罪は当初の国際犯罪防止から予期していなかった事態に進んでしまうのか。いや、そうではない。来るべき有事に備えて、林立する市民団体に恐怖と萎縮の思いを植えつけておく。共謀罪の本当の狙いはその辺にあるのかもしれない。

推薦図書筆者が推薦する基本図書
『監視カメラは何を見ているのか』
自著(角川書店)
『共謀罪とは何か』
海渡雄一+保坂展人(岩波ブックレット)
『超監視社会と自由――共謀罪・顔認証システム・住基ネットを問う』
田島泰彦+斎藤貴男(花伝社)



■e-datahttp://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/complicity.html
[日弁連が取り組む重要課題「日弁連は共謀罪に反対します」]






2007年版

[共謀罪についての基礎知識]
[基礎知識]共謀罪創設でテロを未然に防げるか?





論 点 「共謀罪は必要か」 2007年版


◆ 対論!もう1つの主張
もし共謀罪の犯人が日本に逃げ込んだら……。国際的見地からの批准を
堀田 力(弁護士)

ゆとり教育の見直しは拙速。「詰め込み」と「競争」では学力は向上しない

ゆとり教育の見直しは拙速。「詰め込み」と「競争」では学力は向上しない

おぎ・なおき
尾木直樹 (教育評論家、法政大学教授)
▼プロフィールを見る




全3ページ|1p|2p|3p|
世界の動向に逆行する日本の学力観
 九〇年代後半から本格的に始まった学力低下論とその見直し対策には、四つの誤解や錯覚がある。これでは、今日の社会が求める学力の向上を望むことはできない。
 第一は、学力の定義を避け続けてきたことに起因している。その結果、統計学的なデータが持てはやされた。それに競争原理とシンクロした成果主義が加わり、数字が猛威を振るった。数値化できない教育臨床の複雑な側面はことごとくそぎ落とされ、データが一人歩きした。
 二一世紀を切り拓く学力とは、いったいどんな力なのか。その力量を形成するために、子どもたちに何を教え、どんなカリキュラムが必要なのか。「新しい学力観」が必要であった。しかしその方向が定まらず、空白状態に陥ったために、結局、かつての受験勉強における脱文脈的な暗記力や記号操作的理解力、知識や技能の習得といった認知主義的な学力観が復活しただけである。たとえば百マス計算、漢検や英検・数検などの検定ブームはその典型である。
 しかし、OECDが二〇年近く研究した結果、到達した今日の学力観は、実は「学校知」とは正反対である。そこで学力として測ろうとしているのは、(1)教科横断的力量、(2)自己理解力や学習意欲など生涯発達につながる力、つまり「人生をつくり社会に参加する力」である。きわめて文脈的で包括的、参加型の“リテラシー”こそが必要とされている。換言すれば、シチズンシップの教育であり、「地球市民」の育成を目指しているといってもよい。このことは、実際にOECDが行う調査の問題文を見れば一目瞭然である。文科省や全国の自治体がこれまで実施してきた「学力調査」の問題文とは、まるで別物、異質である。
 これでは、一人日本だけが、世界の学力動向に逆行していると言わざるをえない。


「大人の学力低下」こそ最大の問題
 第二は、教える内容を増やしたり、難しくしたりすれば学力が上がるという錯覚である。
 これまでも繰り返し「学習指導要領の内容が三割削減されたために学力低下をきたした」、だから削減分の復活が必要であると主張された。その結果、新学習指導要領が開始された二〇〇二年(平成一四年)の秋には、カットされた領域が「発展的学習」教材として復活。二〇〇五年に明らかになった中学校新教科書でも、「発展」として次々に復活を遂げ、ページも厚くなった。
 しかし、これは幻想にすぎない。削減は、「七・五・三」現象(教科書を理解できる子どもの割合が小学校七割、中学校五割、高校三割)の解消のために、実行したはずである。これでは「落ちこぼし」の問題まで“復活”させかねない。
 一九九六年にOECDが先進一四カ国の一般市民を対象に行った「科学的知識」「科学技術に対する関心」調査では、日本は一三位、一四位と最下位であった。ところが、この大人世代が小・中学生の頃、IEA(国際教育到達度評価学会)の調査結果では、数学と理科は一九六四年から八一年にわたって常に一位か二位で、「学力」は高かった。それが大人になって、最下位に転落してしまったのだ。実はこうした大人世代の「学力の剥落」=「大人の学力低下」現象こそ最大の問題点なのだ。このことは、かつてのように、「受験戦争」に勝つための暗記、トレーニング中心の「学校知」をどれだけ詰め込んでも、何の役にも立たないことを教えている。

一日九時間授業の学校まで登場
 第三に、授業時間数を増やせば学力が上がるという神話も誤りである。このような主張においては、「学校の授業時間に関する国際比較調査」(国立教育政策研究所、〇三年三月)の結果などを用い、アメリカやフランス、イギリス等と比べて、いかにわが国の授業時間が少ないかが指摘される。しかし、フランス一六位、米国二八位など、いずれも日本(六位)より学力順位は低く、それらの国と比較しても無意味である。それどころか評判のフィンランドは、日本より授業時間数が少ないのに、成績はトップを占めている。つまり「国際比較」によっても、授業時間数と学力の相関関係は証明されていないのである。
 ところが、これらの無責任きわまりない論調は、現場に大変な混乱をもたらしている。
 公立の小中学校では放課後に補習を組んだり、夏休みを一週間あるいは全部カットしたり、二学期制に移行したりしている。ゼロ時間目、七・八時間目を開設し、強制的に一日九時間授業を行う高校や、本来は九月一日の二学期始業式を八月十七日に繰り上げたり、定期試験終了後も、弁当持参で六時間目まで授業を行ったりしている学校もある。遠足や生徒会行事、文化祭、映画会、演劇鑑賞会などが削られるのは、今や当然である。
 文科省による「年間の総授業時数」調査(二〇〇二年度)でも、小学校一年生で、文科省の定めた年間「標準授業時数」を平均で三〇時間も上回っている学校が、全国の七三・五パーセントある。中一では、三一時間超が三五・二パーセントにも及んでいる。もはや「詰め込み」過ぎで、「あふれ出ている」状態といってもよい。


弱者を排除する自治体の学力調査
 第四は、競争させれば学力が向上するという誤解である。成果主義と結びつき、「学力競争」が現場をおおいはじめた。すでに多くの自治体が独自の学力調査を実施し、中には東京のように全区、全市の順位を発表するところもある。順位を上げるために、「テストの解答用紙に書く訓練」や「去年の問題練習」、「出題傾向問題のトレーニング」、「土・日を使った補習授業」などが実施され、子どもたちは大変である。教師にも、平均正答率を上げるための「授業計画」の提出が求められ、対象教科の授業時数まで増やしている。
 「上げる」方策の弊害だけではない。「下げない」方策は“弱者”を直撃している。例えば、不登校児には学力テスト実施の連絡がなかったり、出来が悪く無回答の子どもの答案用紙は、提出しなかったりしたという。子どもたちの間では、点数が取れない子が休むと平均点が上がるので喜ぶといった、差別と排除の考えが広がっている。
 ある教育委員会では、夏休み前から「都『学力向上を図るための調査』に向けて学習しよう」と題したプリントを全児童・生徒に配布した。この「勢い」では、「わざとカンニングをさせる」、「監督教師が正答を教える」、「成績の悪い子に欠席をすすめる」など、一九五六年度から実施され六六年度に廃止された、かつての“全国学力テスト”の亡霊が再び姿を現す気配さえする。
 品川区や荒川区では、学力テスト問題は公表されず、正答率が示されるだけなので、テストそのものの信頼性をチェックすることもできず、受験した子どもたちのつまずきのケアも不可能だ。これでは、学力は向上しない。

ゆとりを失ってストレスが増した
 以上のような、「ゆとり教育の見直し」として取り組まれた学力向上対策は、三つの大きな歪みをもたらした。
 一つめは「ゆとり」の喪失による子どもたちのストレスの増大である。ある調査では、小学生の七・八パーセント、中学生の二二・八パーセントもが抑うつ傾向にあり、そのうち二〇~二五パーセントは、専門医にうつ病と診断された。これでは、学力や学習意欲の向上の話どころではない。「生きる力」そのものの衰退である。
 二つめには、学力格差と学校間格差を拡大、定着させたことである。「悪しき平等」「画一教育」等の批判をバネに、エリート校が続々と生まれている。全県一学区制による「進学校」の復活ほか、トヨタなどの大企業も、来春には直接、学校経営に乗り出す。また今春には、月に五万円以上もの授業料を徴収する「公設民営」の小中高一貫校までオープンした。そればかりか、公立の小・中学校で、「学校選択の自由制」が採用される地区が増え、今や入学者ゼロの中学校まで出現。学力向上をはかるための習熟度別授業も、その意図とは正反対に、学力格差の固定化につながっている。このように学力の「二極化」と「階層化」は、きわめて構造的に推し進められている。
 三つめは、このような状況が、子どもたちの自己肯定感を高めることをきわめて困難にしていることである。自尊感情が低ければ、心豊かな人格の形成も、困難への挑戦も、共同の力も育たない。
 競争による学力の二極化、階層化は、学力向上どころか、子どもの心を破壊する危険さえはらんでいるのである。




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■推薦図書『「学力低下」をどうみるか』
自著(NHKブックス)
『フィンランドに学ぶ教育と学力』
庄井良信+中嶋博編著(明石書店)
『生きるための知識と技能――OECD生徒の学習到達度調査(PISA)』
国立教育政策研究所(ぎょうせい)

ゆとり教育の見直しには学力低下だけではないもっと大きな理由がある

論 点 「ゆとり教育は失敗だったのか」 2006年版

ゆとり教育の見直しには学力低下だけではないもっと大きな理由がある
かりや・たけひこ
苅谷剛彦 (東京大学大学院教授)
▼プロフィールを見る




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見直しのきっかけは学力低下だったが……
 学習指導要領の見直し論議が中央教育審議会(中教審)で行われている。なぜ今見直しなのか。見直しを必要とする背景は何か。見直しを促した「きっかけ」に留まらず、教育改革に仕切り直しを迫る、日本の社会と教育の構造的な変化に目を向けると、この問題の真相が見えてくる。ここでは、「学力低下」が見直しを迫ったといった表面的な議論に終始しがちなマスコミ報道とは違った角度から、なぜ学習指導要領の改訂が必要なのかを論じてみたい。注目するのは、より深部で進行する「教育の地殻変動」である。
 「ゆとり」のもとで「生きる力」の教育をめざすというスローガンのもと、学校週五日制と、それに見あった教える内容の大幅削減、そして改革の目玉といわれた「総合的な学習の時間」の導入が一九九八年(平成一〇年)に公示された学習指導要領で決まった。ところが、発表直後から、この指導要領は「学力低下」批判の嵐に見舞われた。「分数のできない大学生」が問題視され、薄くなった教科書に批判が集まった。勉強しすぎといわれた子どもたちの勉強離れも知られるようになり、小中学生の学力低下を示す調査結果が一般のマスコミでも大きく報じられた。
 こうした批判を受けてか、二〇〇二年に入るやいなや、文部科学省は「学びのすすめ」を発表し、「確かな学力」という新たなスローガンを掲げだす。ゆとりがゆるみになってはいけない。もともと、教育改革は、基礎基本の充実と「自ら学び、自ら考える力」をともに重視してきた。それらをすべて含むのが「確かな学力」だ、という主張である。
 そして、指導要領は「最低基準」だといわれるようになった。教科書の内容の上限を定めた「はどめ規定」が問題視され、「発展的な内容」を教科書に盛り込むことができるよう、二〇〇二年一二月には指導要領の「総則」が早くも改訂された。四年後に迎える教科書の改訂時期を見越して文科省が打った先手である。
 これだけでもすでに「見直し」が行われてきたといえるのだが、さらに決定的となったのが二〇〇四年末に発表された二つの国際調査の結果である。OECDが実施したPISAと呼ばれる調査では、義務教育を終えた直後の日本の高校生の読解力と数学の応用力で、得点が二〇〇〇年調査に比べ低下した。しかも、成績中位、下位者の得点の落ち込みが目立ち、学力の二極化傾向が指摘された。続いて発表されたIEAのTIMSS調査でも、小学四年の理科と、中二の数学の得点が前回より落ち込んでいることが明らかとなった。すでに民間や文科省自身の国内調査によっても知られていた学力の低下傾向が、国際調査によって確認されたのである。これを受けて、中山文科相(当時)が学習指導要領の見直しを中教審に諮問するにいたったのである。


教員不足と質の劣化の時代が迫っている
 このように見ると、「学力低下」の実態におされて、見直し論議が始まったかのように見える。なるほど、きっかけはそうだろう。しかし、人びとの認識は別として、指導要領の見直しを急がねばならない、より重大な理由がある。「教育の地殻変動」が間近に迫っているという事情である。
 現在、公立小中学校にはおよそ六一万人の教員がいる。その年齢構成は、四〇代半ばをピークに四〇~五〇代に大きく偏っている。一九七〇年代末から八〇年代前半にかけて、団塊世代の子どもたちが学齢期を迎えた。そのとき大量採用された教師たちが、今この年齢にさしかかっているのである。彼らの人口圧力が二つの力を教育のインフラに与える。第一に、定期昇給や退職手当の増加によって子ども一人あたりの教育人件費が今後確実に上昇していく。第二に、退職者を補うために教員の大量採用時代を迎える。私たちの推定によれば、現在の四〇人学級をそのままにしたとしても、二〇〇四年度比で今後一〇年以上にわたり、教育費が毎年三〇〇〇億~四〇〇〇億円の負担増となる。赤字まみれの国と地方の財政事情を考えれば、教員の高齢化による教育費の上昇が教育財政を悪化させることは目に見えている。
 こうした財政悪化のもとで、人手不足の時代が教員市場を襲う。東京をはじめ大都市圏ではすでに小学校教員の採用倍率が二倍近くまで落ちているが、こうした買い手市場は数年後には全国に広がっていく。財政が厳しくなる中で、一〇年近くにわたり、教員を毎年新たに二万人以上採用し続けなければならなくなるのである。教員養成課程の一学年あたりの学生定員が一万人に及ばないことを見れば、これは大変な売り手市場である。しかも、八〇年代の大量採用の時代と比べ、一八歳人口の減少によって、大学の教員養成学部の入試倍率はかつての半分以下に低下した。大学に入りやすくなった時代に、教員採用試験にも受かりやすくなる。優秀な人材を採用しようにも、優遇措置をとるのは財政難から難しい。教員不足と質の劣化の時代が目前に迫っているのである。
 先進諸国が教育政策に力を入れているように、教育の質を上げることは今や日本だけの課題ではない。基礎基本も、考える力も、というならなおさらのこと、優れた人材を確保し、施設設備を改善するなど、人とお金をかけ、教育の質の向上を図る必要が弱まることはない。こういう時代に、日本では、教育の現状を維持するだけでも汲々とする事態が迫っているのである。理想ばかり高く掲げてもなかなか実の上がらない「ゆとり」教育路線を、理念は正しいからとそのまま放置するわけにいかない。そうした事情がここにある。

教育界にも及ぶ地方分権の流れ
 もう一つの地殻変動は、地方分権を求める動きに由来する。「三位一体の改革」は、義務教育費国庫負担金を廃止し、教員給与の一般財源化を求めた。財政だけに留まらず、教育行政の仕組みを一層分権化しようという動きが、当の文科省からも始まっている。教員の人事権を都道府県から中核市に移そうという改革案や、区市町村が独自の財源で教員を雇い少人数学級を可能にする施策などである。
 それと合わせて、教える内容や授業時数についても、国の権限をどうするか。土曜日の使い方を含めて、もっと地方に任せたほうがよいとの意見が地方側から出されている。義務教育国庫負担金の議論と合わせて、国と地方の役割分担の見直しが、学習指導要領にも及ぶ可能性があるのだ。どこまでが国の決めるミニマムなのかが、分権化の流れの中で改めて問われるようになったのである。


必要なのは基礎学力の保障と現場の裁量拡大
 教育における人材難と財政難、さらには分権化の流れ。これらの地殻変動が学習指導要領の見直しを迫る、教育の深部で生じている変化である。この深層の変化を知れば、どのような見直しが必要かも見えてくる。財政と人材の不足を前提にすれば、小学校四、五年生くらいまでは、共通に学ぶべき基礎基本の中身を明確にした上で、できるだけ多くの子どもに読み書き算を中心に基礎力がつくように、じっくり学べる時間数を確保することが必須だろう。指導要領が最低限というのであれば、それを確実に身に付けさせる学力保障の考え方を指導要領に書き込むことも、教育格差拡大の時代には求められる。限られた資源をどう配分するか、その優先順位が問われるようになるからである。
 そして、小学校段階でしっかりと基礎力をつけた上で、学年の上昇とともに、国による縛りを緩めていく。月に二回程度の土曜日も、中学、高校レベルになれば、地方の実情に応じて学習や学校行事に自由に使えるようにする。そういう判断を地方にゆだねることも必要だろう。最低限の教える内容についてはともかく、教え方や学力観といったことは、国が決め一斉に指導するのではなく、学校や地域の自主性に任す。そのほうが多様な実践を生み出す余地も広がるだろう。「総合」も一律廃止をいうのではなく、学年の違いをもっと考慮に入れてミニマムを設定した上で、学校現場に近い地方の判断に任せたほうがよい。
 変化や条件の違いに柔軟に、多様に対応でき、教育の地殻変動に耐えうる指導要領が必要なのである。安易な思い込みと理想論では太刀打ちできない。将来の教育と社会の構造変化を見越した上で、それに持ちこたえうる制度設計が求められている。

■推薦図書『義務教育を問いなおす』
藤田英典(ちくま新書)
『学力の社会学――調査が示す学力の変化と学習の課題』
苅谷剛彦+志水宏吉編(岩波書店)
『教育の世紀――学び、教える思想』
自著(弘文堂)

■e-datahttp://www.mext.go.jp/a_menu/gimukyou/index.htm
[文部科学省:義務教育改革について]
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/kikou/
[東京大学大学院教育学研究科:教育研究創発機構]

[ゆとり教育についての基礎知識][基礎知識]学力低下の本当の原因は何か?


[ゆとり教育についての基礎知識]
[基礎知識]学力低下の本当の原因は何か?

「ゆとり教育」への流れ
 文部科学省による「ゆとり教育」路線の始まりは、一九七〇年代にまで遡る。受験戦争への批判が高まるなか、七七年の学習指導要領改訂において、これまでの教育が知育偏重であったという反省にもとづき、「ゆとりある、しかも充実した学校生活」を目標に据えることになった。
 八四年には、非行やいじめ、不登校の急増を背景に、中曽根康弘首相(当時)の諮問機関「臨時教育審議会」が発足する。最終答申までに、「教育の自由化」「個性重視」「国際化と情報化」「学歴社会の是正」といった教育改革の方向性が提言されていった。
 大きな転換点となったのは、八九年改訂・九二年施行の学習指導要領である。子どもの知識より意欲や関心を重視する「新しい学力観」が打ち出されたのだ。と同時に、教師は教える立場ではなく、あくまでも子どもの学びを支える立場として位置づけられた。
 九二年からは月に一回、九五年からは月に二回という形で、「学校週五日制」が段階的に導入された。九六年には、中央教育審議会が「生きる力」を育む「ゆとり教育」を答申した。生きる力とは、自ら課題を見つけて解決する能力を指す。こうした流れのなか、授業時間数と学習内容は、漸次的に減らされ続けることになった。
 〇二年四月には、ゆとり教育の総仕上げといわれる新学習指導要領が実施される。「学校週五日制の完全実施」「総合的な学習の時間の創設」「学習内容の三割削減」を柱としたものだ。これにともない、授業時間数も約一五%減らされることになった。


学力低下論の噴出
 新学習指導要領に対しては、実施前から批判の嵐が吹き荒れた。大学生の学力低下を示すデータが次々に報告され、それを加速させるものと断定されたのだ。確かに不安材料はあった。「総合的な学習の時間」が登場したことで、国語や数学など主要教科の授業時間が削られてしまう。学習内容については、円周率の三・一四が三に簡略化される、台形の面積を求める公式が教科書から消える……といった報道が危機感をあおった。経済界からは、日本の国際的な競争力低下につながるという観点から、反対の大合唱が起きた。
 ゆとり教育の実施は、公立校と私立校の間に、授業時間やカリキュラムの面で大きな格差を生み出す。都心部を中心に、“自衛”の意味で、子どもを私立校受験へ駆り立てる親が目立つようになった。そのため、家庭の経済格差が教育の機会均等をゆるがしかねないという危惧も表明された。
 他方、ゆとり教育の賛成派も健在だった。多くは、暗記重視の詰め込み教育から脱却する方法として、「総合的な学習」に期待を寄せていた。

文部科学省の方向転換
 あいつぐ学力低下論に対して、文部科学省は、次第に学力重視へと軸足を移していく。 PISA(学習到達度調査)とTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)の結果が芳しくなかったことが、

その方向転換に拍車をかけた。特にPISAの出題傾向は、新学習指導要領が重視する「生きる力」を試す内容であったことから、調査結果が与えた衝撃は大きかった。公式には日本の子どもの学力低下を認めてこなかった文科省が、〇五年三月に公表した「文部科学白書」において、「我が国の成績は全体として国際的に上位にあるが、世界のトップレベルとはいえない状況」と総括するに至ったのだ。
 こうした“脱ゆとり”を先導したのは、中山成彬文科相にほかならない。国語力の育成や理数教育・外国語教育の充実を唱え、「世界トップレベル」の学力を取り戻したいと折に触れて発言してきた。教育現場に競争原理を導入するため、全国学力テストの導入を指示し、総合的な学習の時間の削減、土曜日の半日授業を可能にする週五日制の見直しにも言及した。その結果、中教審は、「ゆとり教育」を柱とした現行の学習指導要領を全面的に見直すことになった。
 ゆとり教育について一番の問題点はどこにあるのか。中山文科相は、〈子供たちに「勉強しなくていい」というメッセージを与えている。先生にも、これだけ教えればいいと間違って伝わっている。指導要領も基礎基本をちゃんと教えることになっているが、内容の削減以上に時間を減らしたのは問題。基礎基本を徹底するなら、反復して教えるべきだ〉(読売新聞〇五年二月一五日付)と答えている。


“脱ゆとり”への賛否両論
 PISAとTIMSSの結果を受けて、ゆとり教育からの脱却を歓迎する声は多い。
 二つの調査がおこなわれた時期からみて、学力低下の原因を、現行の学習指導要領以前に遡って捉える意見もある。精神科医で国際医療福祉大教授の和田秀樹氏は、八九年改訂・九二年施行のカリキュラム削減に原因を求める教育関係者が多いことを指摘した。その上で、〈つまり、二〇〇二年のゆとり教育を撤回するだけでは、まだ足りず、少なくとも九二年以前に戻さないと、学力低下に歯止めがかからないのである。逆にいうと、二〇〇二年のゆとり教育を受けた子どもたちが、これらの調査を受けるころには、更なる学力低下が予想され、アジアでビリどころではなくなるだろう〉(産経新聞〇五年一月七日付)と予想する。
 折しも、現行学習指導要領の下で学んだ子どもたちについて、興味深いデータが発表された。全国から抽出した国公私立の小中学生を対象におこなわれた〇四年度「教育課程実施状況調査」の結果である。国語の記述式問題で正答率が低いといった弱点が浮かび上がったものの、全体的に〇一年の前回調査より正答率が高かった。ある意味では、学力の低下傾向に歯止めがかかったといえよう。これをゆとり教育の効果だとする見方はほとんどない。むしろ、ゆとり教育に危機感をつのらせた現場の教員たちが、懸命に時間をひねり出し、生徒たちを漢字の練習や計算問題に駆り立てた成果として捉えられている。
 とはいえ、従来型の教育に戻せば、事態は改善されるのだろうか。教育大国フィンランドの学校事情に詳しい中嶋博・早稲田大名誉教授は、〈日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は、詰め込まれた知識量をみるものだった。それを見直して、生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかをみるための指標として始まったのがPISA。だから、暗記や暗唱が中心の教育に戻したり、授業時間を増やしたりする方法では、日本の教育が抱えている課題は解決できない〉(朝日新聞〇五年二月二〇日付)と話す。
 学校教育学が専門の加藤幸次・上智大教授は、〈詰め込み時代の再来になる。いじめや不登校が深刻化するのでは〉(朝日新聞〇五年二月二〇日付)と懸念する。
 かつて、ゆとり教育の旗振り役として活躍した人々はどう考えているのか。
 現在の指導要領を推進しいまは文化庁文化部長をつとめる寺脇研氏は、学力だけを尺度に判断するのは乱暴だと考える。〈高度成長期は学力向上だけが目標だった。今は子どもの心や体、家庭や地域社会の崩壊の問題も同時に考えなくてはならない。この連立方程式のような問題に対応するため、五日制や総合学習を導入した〉(日本経済新聞〇五年七月一〇日付)。
 かたや、文科相だった有馬朗人氏(現・日本科学技術振興財団会長)は、〈全国学力テストを実施することには賛成だ。文相時代、子どもたちの学力の推移を示す資料がなかった。現在の調査は間隔があきすぎているので、約三年ごとにデータをとり、その結果で学習指導要領を手直しするようにしたらいい〉(朝日新聞〇五年二月一三日付)と提案している。
 東京大大学院教育学研究科長の佐藤学氏は、学力低下という現象の背後に、教育全般の劣化と教職の専門職性の危機をみる。〈この深刻な事態において教育の劣化を克服する最後の有効な方途は、教師の資質と能力の向上であり専門職性の樹立である〉(「論座」〇五年二月号)として、教師教育を学部段階から大学院段階へ引き上げるべきだと訴えた。
 教育評論家の中井浩一氏は、これからの学校教育そのものに悲観的だ。〈高度成長期に「詰め込み」が成立したのは、教育がよかっただけではなく、社会に実際のインセンティブがあったからなのだ。社会が、若者に未来を保証できず、学ぶ意味を示せないでいる時代に、教育に多くを求めるのは無理なのではないか。また、現下の教育に存在する大いなる矛盾も明らかである。教育する側は、高度成長期の中に成功体験を持ち、そこから生まれた価値観を持って生きているのだ。彼らが、どうして新たな価値観と生き方を教育することができようか。それはまさに「自己否定」にほかならないのだから〉(「中央公論」〇五年四月号)。
 学校だけでなく、各家庭による学習環境の違いにも眼を向ける必要がある。先述の文科省による「教育課程実施状況調査」では、全学年と全教科を通じて、朝食をきちんととっている子どもの成績がよいという傾向が明らかになった。
 また、日本では、高等教育において政府の支援が不十分なため、教育費は家計の負担に大きく依存するといわれる。米国の教育政策研究所(EPI)が示したデータはこれを裏付けた。欧米と豪州、日本などの先進一六カ国・地域を対象に、国民からみて大学に進学しやすい国をランキング方式で発表したところ、日本は最下位となったのだ。上位グループは、一位がスウェーデン、二位がフィンランド、三位がオランダという結果であった(朝日新聞〇五年六月二〇日付)。教育を受ける機会に、家庭の階層間格差が大きく影響している点に、さらなる議論が期待される。

自治体の取り組み
 各自治体は文科省に先駆けて“脱ゆとり”へと進んでいる。朝日新聞社の調べによると、休日の土曜日に補習をおこなう公立高校教員に対して代休を認めるなど、実質的に「土曜授業」を公認する自治体が二〇府県にのぼることが判明した(朝日新聞〇五年一月一二日付)。小中学校も事情は変わらない。〇五年六月、東京都では、中央区をはじめ四区の小中学校で、教員が土曜日に平日授業の復習をさせたり入試対策をおこなう「土曜スクール」を開始した。
 「総合的な学習の時間」を数学や英語などの教科学習に振り替えている学校も少なくない。東京都世田谷区では、約半数の区立小学校が英語に関連した授業をすすめている。同区立中学校でも、三年生の三学期になると毎年、主要教科の時間に切り換えるのが慣例だ。


「総合的な学習の時間」をめぐって
 とはいえ、中山文科相が総合的な学習の時間を見直す方針を示したことで、教育現場には動揺が広がった。主要教科に力を注ぐべきだとして賛同の声があがる一方、文科相の発言に反発も起きた。
 そもそも「総合的な学習」は、これから目指すべき新しい学力「生きる力」を育むものとして導入された。いわば、ゆとり教育の中核を担うだけに、この時期の見直しはあまりに定見がないという意見があいついだ。試行錯誤で教材を準備し、何とか新しい試みを軌道に乗せてきた学校現場では特に、やりきれない思いが渦巻く。
 教育課程論が専門の長尾彰夫・大阪教育大教授は、〈地域に出かけて学んだり、職場体験で職業意識をつけたりする場は今後いっそう求められる。現場は大臣の思いつき発言に左右されず、目の前の子どもを見つめて実践を重ねてほしい〉(朝日新聞〇五年一月一九日付)と「総合的な学習」の続行を求めた。
 滋賀県高島市立今津東小学校の大杉稔教諭は、〈総合を残すのか、取りやめて教科に時間を戻すのか、そうしたことを国が一律に決めずに、第一線で子どもたちの「今」を見つめている私たち学校(教師)に任せて欲しいのである〉(朝日新聞〇五年二月二六日付)と主張している。

保護者と教員の意識差

 教育改革をめぐって議論が揺れるなか、保護者と教員はどのように考えているのか。
 〇五年六月に発表された文科省の「義務教育に関する意識調査」の結果は、両者の意識差を顕著に浮かび上がらせた。「総合的な学習」について、保護者が大きな期待を寄せる一方、教員の八二・七%が「教材作成や打ち合わせなど準備に時間がかかり、負担が重くて大変だ」と答えている。特に中学校の教員に、否定的な傾向が目立つ。公立小中学校の年間授業時間を増やすことについては、保護者の六七%が賛成したのに対して、教員は三六・三%の賛成にとどまった。放課後や土曜日、夏休みに補習授業をおこなうことについては、保護者の六一・四%が賛成する一方、教員は一三・八%が賛成、五九・五%が反対という数字が出た。
 保護者は公教育に対して、子どもに十分な学習をさせてほしいと望むだけでなく、点数では測れない新たな能力も身につけさせてほしいと期待を寄せる。しかし、教員の姿勢は前向きではない。教育方法学が専門の埼玉大の岩川直樹教授は、〈教員の多忙感が臨界点に達していることを前提に調査結果を見るべきだ。教員の仕事はより複雑に高度になっているのに、人やモノ、金、時間などの条件は整っていない〉(東京新聞〇五年六月一九日付)と注意を促している。

全入時代、大学の国際競争力はどこまで落ちるか?

全入時代、大学の国際競争力はどこまで落ちるか?
2008.02.08 更新

*このコーナーでは、『日本の論点』スタッフライターや各分野のエキスパートが耳寄り情報、マル秘情報をもとに、政治・経済・外交・社会などの分野ごとに近未来を予測します。

 大学受験シーズンの真っ最中である。これから国公立大学の2次試験と私立大学の一般入試がはじまるが、「厳しい受験戦争」という言葉はいっこうに聞こえてこない。“大学全入”の時代をむかえ、大学や学部さえ選ばなければ、誰でも大学に進学できるようになったからだ。すでに大学入学者の42.6%が一般入試を受けず、推薦入学や一芸入試などのAO(アドミッション・オフィス=入学試験事務局)入試で入学している。いまや大学がらみの競争といえば、もっぱら生き残りを賭けた大学間の“サバイバル戦”を指すようになったのである。

 受験戦争が影をひそめたことに加え、授業時間を大幅に削減した“ゆとり教育”の実施によって、日本の生徒は勉強をしなくなった。そのため、生徒の学力は著しく低下した。OECDの「生徒の学習到達度調査」(PISA)によれば、2000年調査では数学的な能力を計る「数学的リテラシー」が世界第1位だったが、03年は6位に、06年は10位に転落し、教育関係者に衝撃を与えた。さらに「総合読解力」は、この6年間で8位から15位に、「科学的リテラシー」は2位から6位に落ちるなど、全分野で順位を下げる結果を招いてしまったのである。

 学力の低下は、何をもたらすのか。英国「The Times」誌の別冊「THES」が07年11月に発表した『世界大学ランキング2007』によれば、日本の大学はベスト10に1校もランクされていない。1位のハーバード大学、2位のケンブリッジ大学など、10位までに米英の名門校がずらりと並ぶ。日本の大学で100位以内に留まっているのは、17位の東京大学、25位の京都大学、46位の大阪大学、90位の東京工業大学といった国立の4校にすぎない。200位以内の大学は、私立の慶応義塾大学(161位)と早稲田大学(180位)の2校を含め、わずか11校だった。このTHESランキングは04年に開始された。東大は、初回調査で14位だったが、その後3年連続で順位を下げた。06年にはアジアトップの座を14位の北京大学に明け渡し、19位にまで転落したのである。

 THESランキングでは世界の大学を、研究力(研究者の評価40%、教員一人当たり論文引用数20%)、就職力(雇用者側の評価10%)、国際性(外国人教員比率5%、外国人学生比率5%)、教育力(教員数と学生数の比率20%)という観点から評価している。研究力に重点が置かれていることから、英語で論文を発表する国の大学が高く評価される傾向がある。アジアの大学には不利な面があるのだが、中国の上海交通大学が調査する『世界のトップ500大学』の調査でも、ベスト100のほとんどを米国の大学が占める結果となった。評価の基準は、ノーベル賞などを受賞した卒業生と教員数、「ネイチャー」「サイエンス」誌などへの掲載論文数、論文の被引用数などである。07年のトップ100をみると、20位の東大、22位の京大、67位の阪大など、日本の大学では国立大が6校しか入っていない。

 日本の研究業績は、世界に遅れをとってきたわけではない。論文の占有率では、長らく米国に次いで2位を維持してきた。だが、論文がどれだけ引用されているかを表す「相対被引用比率」(被引用数の占有率を論文数の占有率で割ったもの)になると、米国、英国、ドイツ、フランスに次ぐ5位にすぎない。しかも中国とロシアが、猛烈な勢いで日本に迫っている。日本の研究者数も、すでに中国に抜かれ世界3位になった。中国では、膨大な科学技術予算を投じ、飛び級制度によるエリート教育を実施している。日本の大学が中国の大学に追い越されるのは、まさに時間の問題といえるだろう。

 少子化が進むなかで、日本の各大学は研究機関の充実よりも、学生集めに躍起になっている。今後は、“大学全入”と“ゆとり教育”の影響が顕在化し、大学の国際競争力をさらに低下させるのはまちがいないだろう。

(福本博文 ふくもと・ひろふみ=ノンフィクション作家)

空港外資規制は誰のためか

外資による空港関連会社の株式保有比率を、3分の1以下に制限する――国土交通省が目指したこんな外資規制の導入は、今国会ではひとまず見送られることになった。09年度以降に予定されている成田空港の上場・完全民営化までに、あらためて協議される見通しだ。

 導入を目指した理由は大きく二つある。一つは外資に支配されることで、安全保障上の懸念が出てきたこと、もう一つは独占的な利益が追求され、利用者の利便性が失われるおそれがあるというのである。空港は代替のきかない国家の重要インフラであるだけに、こういう事態は避ける必要がある、という理屈だ。

 たしかに海外でも、空港に規制を導入している例は少なくない。米国やフランスなど多くの国では、民営化せずに国や自治体などが管理している。あるいは中国の北京国際空港や豪州のシドニー空港のように、運営は民間企業ながら過半の株を政府が保有するなどの規制を設けているところもある。民間の運営で、かつ規制のない空港は、英国のヒースローなどごく少数だ。ちなみに同空港は現在、スペイン企業の傘下にある。

 だが日本では、与党内や閣内、経済界から導入反対論が相次ぎ、法案の提出は見送られた。人口減少や低成長、財政難という大きな課題を抱える日本にとって、外資を誘導することは不可欠な成長戦略だ。それを阻害するような規制を設けることは、まさに自らの首を締めるようなもの、というわけである。

 しかし、そもそも、なぜ規制の対象が「外資」なのかがわからない。悪意のある資本を警戒するのであれば、それは国内外を問わないはずだ。リスクを避けるなら、海外の多くの空港と同様、最初から上場などしなければいい。あるいは発行株の一定割合を国が保有するといった規制で十分ではないか。民営化して財政負担を軽くしたい、なるべく多くの株を発行して資金を集めたい、でも外資がまとめて買うのはダメ、ではムシがよすぎる。まるで攘夷思想だ。

 国交省がこの規制の導入を急いだのは、羽田空港のビル運営会社の株をすでに豪州のファンドが約20%保有しているからだといわれている。危機感の表れともいえるが、見方を変えれば"事後介入"の印象も拭えない。しかも空港関連施設とはいえ、滑走路や管制塔ではなく、あくまでも商業ビルの話だ。仮に外資の傘下に入ったとしても、安全保障上のリスクがあるとは考えにくい。

 じつは同ビル運営会社も成田空港も、国交省OBの重要な天下り先になっている。外資を排除したいのは、その確保のためではないかとさえいわれている。仮に買収されても、それが国内企業なら手なずけることができる、という自信の裏返しかもしれない。

 先月末、福田総理はダボス会議での講演で、「対日投資、貿易手続き、金融資本市場の改革等の市場開放努力をいっそう進め、日本を世界とともに成長する国」にすると宣言した。その舌の根も渇かぬうちの昨今の外資規制論議を、当の外国資本はどんな思いで見ているだろう。もはや、日本に注目する外資など希少かもしれないが。

(島田栄昭 しまだ・よしあき=『日本の論点』スタッフライター)

2008年3月1日土曜日

続・MBAへの道 ksawa522の「受験まで」

受験まで

前回ちょっと勉強に触れたので、受験までの準備などを書いてみたいと思います。
MBAへの進学を決断したのは実のところ6月ぐらいです。一応それ以前にも準備はしていましたが、正直どうしようかは迷っていました。迷っていたというのは、試験日の関係で仕事の休みを取ることが難しく、受験する=退職という状況であったからです。本当は合格が決まってから退職という流れにしたかったのですが、そもそも受験が出来ないのではどうしようもない為、最後までそのリスクを取るべきかが悩みの原点にありました。結局、試験日程が発表になり、予想通り休みが取れない日程が分かった段階で、私の場合はむしろ逆に踏ん切りがついたというか、やるしかないって思えるようになったので退職を申し出て受験を決意しました。
出願は9月上旬。試験が9月下旬。試験としては英語、小論文。それと研究計画書に基づく口述試験がありました。
英語は1年前から日経ウィークリーを購読し、英文になれると共に経済・経営用語にも馴染もうと努力しました。本格的には6月以降、社説の和訳を毎日行うようにして、単語帳も作り地道に準備をすすめました。
小論文は、4月から白藍塾という通信添削の講座を受講しました。特にMBA向けではないため、小論文とは何ぞやという部分では役たったと思います。
研究計画は6月ぐらいから構想を練り、知人の大学助手にアドバイスをもらってテーマを設定しました。ちょっと抽象的だとは言われていましたが、結局そのまま提出しました。
この間も経営関係の本は相当に読みました。特にHRM関連の名著は集中して読むようにしました。仕事柄、1時に帰ってきて3時まで勉強して6時には起きる生活になりましたが、忙しいときほどいろいろとやれるということを実感できたことも収穫ではあります。