2008年3月10日月曜日

ゆとり教育の見直しには学力低下だけではないもっと大きな理由がある

論 点 「ゆとり教育は失敗だったのか」 2006年版

ゆとり教育の見直しには学力低下だけではないもっと大きな理由がある
かりや・たけひこ
苅谷剛彦 (東京大学大学院教授)
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見直しのきっかけは学力低下だったが……
 学習指導要領の見直し論議が中央教育審議会(中教審)で行われている。なぜ今見直しなのか。見直しを必要とする背景は何か。見直しを促した「きっかけ」に留まらず、教育改革に仕切り直しを迫る、日本の社会と教育の構造的な変化に目を向けると、この問題の真相が見えてくる。ここでは、「学力低下」が見直しを迫ったといった表面的な議論に終始しがちなマスコミ報道とは違った角度から、なぜ学習指導要領の改訂が必要なのかを論じてみたい。注目するのは、より深部で進行する「教育の地殻変動」である。
 「ゆとり」のもとで「生きる力」の教育をめざすというスローガンのもと、学校週五日制と、それに見あった教える内容の大幅削減、そして改革の目玉といわれた「総合的な学習の時間」の導入が一九九八年(平成一〇年)に公示された学習指導要領で決まった。ところが、発表直後から、この指導要領は「学力低下」批判の嵐に見舞われた。「分数のできない大学生」が問題視され、薄くなった教科書に批判が集まった。勉強しすぎといわれた子どもたちの勉強離れも知られるようになり、小中学生の学力低下を示す調査結果が一般のマスコミでも大きく報じられた。
 こうした批判を受けてか、二〇〇二年に入るやいなや、文部科学省は「学びのすすめ」を発表し、「確かな学力」という新たなスローガンを掲げだす。ゆとりがゆるみになってはいけない。もともと、教育改革は、基礎基本の充実と「自ら学び、自ら考える力」をともに重視してきた。それらをすべて含むのが「確かな学力」だ、という主張である。
 そして、指導要領は「最低基準」だといわれるようになった。教科書の内容の上限を定めた「はどめ規定」が問題視され、「発展的な内容」を教科書に盛り込むことができるよう、二〇〇二年一二月には指導要領の「総則」が早くも改訂された。四年後に迎える教科書の改訂時期を見越して文科省が打った先手である。
 これだけでもすでに「見直し」が行われてきたといえるのだが、さらに決定的となったのが二〇〇四年末に発表された二つの国際調査の結果である。OECDが実施したPISAと呼ばれる調査では、義務教育を終えた直後の日本の高校生の読解力と数学の応用力で、得点が二〇〇〇年調査に比べ低下した。しかも、成績中位、下位者の得点の落ち込みが目立ち、学力の二極化傾向が指摘された。続いて発表されたIEAのTIMSS調査でも、小学四年の理科と、中二の数学の得点が前回より落ち込んでいることが明らかとなった。すでに民間や文科省自身の国内調査によっても知られていた学力の低下傾向が、国際調査によって確認されたのである。これを受けて、中山文科相(当時)が学習指導要領の見直しを中教審に諮問するにいたったのである。


教員不足と質の劣化の時代が迫っている
 このように見ると、「学力低下」の実態におされて、見直し論議が始まったかのように見える。なるほど、きっかけはそうだろう。しかし、人びとの認識は別として、指導要領の見直しを急がねばならない、より重大な理由がある。「教育の地殻変動」が間近に迫っているという事情である。
 現在、公立小中学校にはおよそ六一万人の教員がいる。その年齢構成は、四〇代半ばをピークに四〇~五〇代に大きく偏っている。一九七〇年代末から八〇年代前半にかけて、団塊世代の子どもたちが学齢期を迎えた。そのとき大量採用された教師たちが、今この年齢にさしかかっているのである。彼らの人口圧力が二つの力を教育のインフラに与える。第一に、定期昇給や退職手当の増加によって子ども一人あたりの教育人件費が今後確実に上昇していく。第二に、退職者を補うために教員の大量採用時代を迎える。私たちの推定によれば、現在の四〇人学級をそのままにしたとしても、二〇〇四年度比で今後一〇年以上にわたり、教育費が毎年三〇〇〇億~四〇〇〇億円の負担増となる。赤字まみれの国と地方の財政事情を考えれば、教員の高齢化による教育費の上昇が教育財政を悪化させることは目に見えている。
 こうした財政悪化のもとで、人手不足の時代が教員市場を襲う。東京をはじめ大都市圏ではすでに小学校教員の採用倍率が二倍近くまで落ちているが、こうした買い手市場は数年後には全国に広がっていく。財政が厳しくなる中で、一〇年近くにわたり、教員を毎年新たに二万人以上採用し続けなければならなくなるのである。教員養成課程の一学年あたりの学生定員が一万人に及ばないことを見れば、これは大変な売り手市場である。しかも、八〇年代の大量採用の時代と比べ、一八歳人口の減少によって、大学の教員養成学部の入試倍率はかつての半分以下に低下した。大学に入りやすくなった時代に、教員採用試験にも受かりやすくなる。優秀な人材を採用しようにも、優遇措置をとるのは財政難から難しい。教員不足と質の劣化の時代が目前に迫っているのである。
 先進諸国が教育政策に力を入れているように、教育の質を上げることは今や日本だけの課題ではない。基礎基本も、考える力も、というならなおさらのこと、優れた人材を確保し、施設設備を改善するなど、人とお金をかけ、教育の質の向上を図る必要が弱まることはない。こういう時代に、日本では、教育の現状を維持するだけでも汲々とする事態が迫っているのである。理想ばかり高く掲げてもなかなか実の上がらない「ゆとり」教育路線を、理念は正しいからとそのまま放置するわけにいかない。そうした事情がここにある。

教育界にも及ぶ地方分権の流れ
 もう一つの地殻変動は、地方分権を求める動きに由来する。「三位一体の改革」は、義務教育費国庫負担金を廃止し、教員給与の一般財源化を求めた。財政だけに留まらず、教育行政の仕組みを一層分権化しようという動きが、当の文科省からも始まっている。教員の人事権を都道府県から中核市に移そうという改革案や、区市町村が独自の財源で教員を雇い少人数学級を可能にする施策などである。
 それと合わせて、教える内容や授業時数についても、国の権限をどうするか。土曜日の使い方を含めて、もっと地方に任せたほうがよいとの意見が地方側から出されている。義務教育国庫負担金の議論と合わせて、国と地方の役割分担の見直しが、学習指導要領にも及ぶ可能性があるのだ。どこまでが国の決めるミニマムなのかが、分権化の流れの中で改めて問われるようになったのである。


必要なのは基礎学力の保障と現場の裁量拡大
 教育における人材難と財政難、さらには分権化の流れ。これらの地殻変動が学習指導要領の見直しを迫る、教育の深部で生じている変化である。この深層の変化を知れば、どのような見直しが必要かも見えてくる。財政と人材の不足を前提にすれば、小学校四、五年生くらいまでは、共通に学ぶべき基礎基本の中身を明確にした上で、できるだけ多くの子どもに読み書き算を中心に基礎力がつくように、じっくり学べる時間数を確保することが必須だろう。指導要領が最低限というのであれば、それを確実に身に付けさせる学力保障の考え方を指導要領に書き込むことも、教育格差拡大の時代には求められる。限られた資源をどう配分するか、その優先順位が問われるようになるからである。
 そして、小学校段階でしっかりと基礎力をつけた上で、学年の上昇とともに、国による縛りを緩めていく。月に二回程度の土曜日も、中学、高校レベルになれば、地方の実情に応じて学習や学校行事に自由に使えるようにする。そういう判断を地方にゆだねることも必要だろう。最低限の教える内容についてはともかく、教え方や学力観といったことは、国が決め一斉に指導するのではなく、学校や地域の自主性に任す。そのほうが多様な実践を生み出す余地も広がるだろう。「総合」も一律廃止をいうのではなく、学年の違いをもっと考慮に入れてミニマムを設定した上で、学校現場に近い地方の判断に任せたほうがよい。
 変化や条件の違いに柔軟に、多様に対応でき、教育の地殻変動に耐えうる指導要領が必要なのである。安易な思い込みと理想論では太刀打ちできない。将来の教育と社会の構造変化を見越した上で、それに持ちこたえうる制度設計が求められている。

■推薦図書『義務教育を問いなおす』
藤田英典(ちくま新書)
『学力の社会学――調査が示す学力の変化と学習の課題』
苅谷剛彦+志水宏吉編(岩波書店)
『教育の世紀――学び、教える思想』
自著(弘文堂)

■e-datahttp://www.mext.go.jp/a_menu/gimukyou/index.htm
[文部科学省:義務教育改革について]
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/kikou/
[東京大学大学院教育学研究科:教育研究創発機構]

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