ゆとり教育の見直しは拙速。「詰め込み」と「競争」では学力は向上しない
おぎ・なおき
尾木直樹 (教育評論家、法政大学教授)
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世界の動向に逆行する日本の学力観
九〇年代後半から本格的に始まった学力低下論とその見直し対策には、四つの誤解や錯覚がある。これでは、今日の社会が求める学力の向上を望むことはできない。
第一は、学力の定義を避け続けてきたことに起因している。その結果、統計学的なデータが持てはやされた。それに競争原理とシンクロした成果主義が加わり、数字が猛威を振るった。数値化できない教育臨床の複雑な側面はことごとくそぎ落とされ、データが一人歩きした。
二一世紀を切り拓く学力とは、いったいどんな力なのか。その力量を形成するために、子どもたちに何を教え、どんなカリキュラムが必要なのか。「新しい学力観」が必要であった。しかしその方向が定まらず、空白状態に陥ったために、結局、かつての受験勉強における脱文脈的な暗記力や記号操作的理解力、知識や技能の習得といった認知主義的な学力観が復活しただけである。たとえば百マス計算、漢検や英検・数検などの検定ブームはその典型である。
しかし、OECDが二〇年近く研究した結果、到達した今日の学力観は、実は「学校知」とは正反対である。そこで学力として測ろうとしているのは、(1)教科横断的力量、(2)自己理解力や学習意欲など生涯発達につながる力、つまり「人生をつくり社会に参加する力」である。きわめて文脈的で包括的、参加型の“リテラシー”こそが必要とされている。換言すれば、シチズンシップの教育であり、「地球市民」の育成を目指しているといってもよい。このことは、実際にOECDが行う調査の問題文を見れば一目瞭然である。文科省や全国の自治体がこれまで実施してきた「学力調査」の問題文とは、まるで別物、異質である。
これでは、一人日本だけが、世界の学力動向に逆行していると言わざるをえない。
「大人の学力低下」こそ最大の問題
第二は、教える内容を増やしたり、難しくしたりすれば学力が上がるという錯覚である。
これまでも繰り返し「学習指導要領の内容が三割削減されたために学力低下をきたした」、だから削減分の復活が必要であると主張された。その結果、新学習指導要領が開始された二〇〇二年(平成一四年)の秋には、カットされた領域が「発展的学習」教材として復活。二〇〇五年に明らかになった中学校新教科書でも、「発展」として次々に復活を遂げ、ページも厚くなった。
しかし、これは幻想にすぎない。削減は、「七・五・三」現象(教科書を理解できる子どもの割合が小学校七割、中学校五割、高校三割)の解消のために、実行したはずである。これでは「落ちこぼし」の問題まで“復活”させかねない。
一九九六年にOECDが先進一四カ国の一般市民を対象に行った「科学的知識」「科学技術に対する関心」調査では、日本は一三位、一四位と最下位であった。ところが、この大人世代が小・中学生の頃、IEA(国際教育到達度評価学会)の調査結果では、数学と理科は一九六四年から八一年にわたって常に一位か二位で、「学力」は高かった。それが大人になって、最下位に転落してしまったのだ。実はこうした大人世代の「学力の剥落」=「大人の学力低下」現象こそ最大の問題点なのだ。このことは、かつてのように、「受験戦争」に勝つための暗記、トレーニング中心の「学校知」をどれだけ詰め込んでも、何の役にも立たないことを教えている。
一日九時間授業の学校まで登場
第三に、授業時間数を増やせば学力が上がるという神話も誤りである。このような主張においては、「学校の授業時間に関する国際比較調査」(国立教育政策研究所、〇三年三月)の結果などを用い、アメリカやフランス、イギリス等と比べて、いかにわが国の授業時間が少ないかが指摘される。しかし、フランス一六位、米国二八位など、いずれも日本(六位)より学力順位は低く、それらの国と比較しても無意味である。それどころか評判のフィンランドは、日本より授業時間数が少ないのに、成績はトップを占めている。つまり「国際比較」によっても、授業時間数と学力の相関関係は証明されていないのである。
ところが、これらの無責任きわまりない論調は、現場に大変な混乱をもたらしている。
公立の小中学校では放課後に補習を組んだり、夏休みを一週間あるいは全部カットしたり、二学期制に移行したりしている。ゼロ時間目、七・八時間目を開設し、強制的に一日九時間授業を行う高校や、本来は九月一日の二学期始業式を八月十七日に繰り上げたり、定期試験終了後も、弁当持参で六時間目まで授業を行ったりしている学校もある。遠足や生徒会行事、文化祭、映画会、演劇鑑賞会などが削られるのは、今や当然である。
文科省による「年間の総授業時数」調査(二〇〇二年度)でも、小学校一年生で、文科省の定めた年間「標準授業時数」を平均で三〇時間も上回っている学校が、全国の七三・五パーセントある。中一では、三一時間超が三五・二パーセントにも及んでいる。もはや「詰め込み」過ぎで、「あふれ出ている」状態といってもよい。
弱者を排除する自治体の学力調査
第四は、競争させれば学力が向上するという誤解である。成果主義と結びつき、「学力競争」が現場をおおいはじめた。すでに多くの自治体が独自の学力調査を実施し、中には東京のように全区、全市の順位を発表するところもある。順位を上げるために、「テストの解答用紙に書く訓練」や「去年の問題練習」、「出題傾向問題のトレーニング」、「土・日を使った補習授業」などが実施され、子どもたちは大変である。教師にも、平均正答率を上げるための「授業計画」の提出が求められ、対象教科の授業時数まで増やしている。
「上げる」方策の弊害だけではない。「下げない」方策は“弱者”を直撃している。例えば、不登校児には学力テスト実施の連絡がなかったり、出来が悪く無回答の子どもの答案用紙は、提出しなかったりしたという。子どもたちの間では、点数が取れない子が休むと平均点が上がるので喜ぶといった、差別と排除の考えが広がっている。
ある教育委員会では、夏休み前から「都『学力向上を図るための調査』に向けて学習しよう」と題したプリントを全児童・生徒に配布した。この「勢い」では、「わざとカンニングをさせる」、「監督教師が正答を教える」、「成績の悪い子に欠席をすすめる」など、一九五六年度から実施され六六年度に廃止された、かつての“全国学力テスト”の亡霊が再び姿を現す気配さえする。
品川区や荒川区では、学力テスト問題は公表されず、正答率が示されるだけなので、テストそのものの信頼性をチェックすることもできず、受験した子どもたちのつまずきのケアも不可能だ。これでは、学力は向上しない。
ゆとりを失ってストレスが増した
以上のような、「ゆとり教育の見直し」として取り組まれた学力向上対策は、三つの大きな歪みをもたらした。
一つめは「ゆとり」の喪失による子どもたちのストレスの増大である。ある調査では、小学生の七・八パーセント、中学生の二二・八パーセントもが抑うつ傾向にあり、そのうち二〇~二五パーセントは、専門医にうつ病と診断された。これでは、学力や学習意欲の向上の話どころではない。「生きる力」そのものの衰退である。
二つめには、学力格差と学校間格差を拡大、定着させたことである。「悪しき平等」「画一教育」等の批判をバネに、エリート校が続々と生まれている。全県一学区制による「進学校」の復活ほか、トヨタなどの大企業も、来春には直接、学校経営に乗り出す。また今春には、月に五万円以上もの授業料を徴収する「公設民営」の小中高一貫校までオープンした。そればかりか、公立の小・中学校で、「学校選択の自由制」が採用される地区が増え、今や入学者ゼロの中学校まで出現。学力向上をはかるための習熟度別授業も、その意図とは正反対に、学力格差の固定化につながっている。このように学力の「二極化」と「階層化」は、きわめて構造的に推し進められている。
三つめは、このような状況が、子どもたちの自己肯定感を高めることをきわめて困難にしていることである。自尊感情が低ければ、心豊かな人格の形成も、困難への挑戦も、共同の力も育たない。
競争による学力の二極化、階層化は、学力向上どころか、子どもの心を破壊する危険さえはらんでいるのである。
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■推薦図書『「学力低下」をどうみるか』
自著(NHKブックス)
『フィンランドに学ぶ教育と学力』
庄井良信+中嶋博編著(明石書店)
『生きるための知識と技能――OECD生徒の学習到達度調査(PISA)』
国立教育政策研究所(ぎょうせい)
2008年3月10日月曜日
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