年金も医療も税金でまかなうのが公平で効率的。企業は福祉から撤退せよ
たちばなき・としあき
橘木俊詔 (京都大学大学院教授)
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企業の福利厚生とは賃金以外の給付
福祉制度の担い手としては、国家や地方公共団体という公共部門、そして本人、家族、企業が重要である。多くの国の歴史をたどれば、過去は家族、企業が中心であった。公共部門が登場するのは西欧であれば一九世紀後半にすぎない。日本では「福祉元年」と称される一九七三年(昭和四八年)に、すべての国民に年金や医療サービスがおよぶ皆保険となり、国家が前面にでてきた。それ以前は家族と企業が中心であった。
企業はどのようなかたちで福祉の担い手だったのだろうか。戦前の大企業では、労働傷害や病気に備えた労災保険や医療保険、社員に住居を提供する社宅や独身寮、それに企業独自の病院というのが企業福祉の顔であった。従業員にこれらの諸福祉を提供することで生活の安定に寄与し、長期間会社で働いてもらうため、勤労意欲を高めるため、あるいは良好な労使関係を保持するための手段として、企業は福祉を担ったのである。
その後、第二次大戦前後から国家が年金、医療、失業、労災といった社会保険制度を運営することとなり、企業はそれらの保険料を労働者とともに負担する姿に変容した。それが法定福利厚生と呼ばれるものである。しかし、企業独自の福祉制度も残ったし、さらなる発展もみられた。それは社宅、独身寮、文化・スポーツ施設、社員食堂、病院、退職金、企業年金、といったもので、その企業で働く従業員だけに福祉サービスが提供されるものである。これらは法律で強制されるものではないので、非法定(あるいは法定外)福利厚生と呼ばれる。
このように、企業が福祉に寄与する方法は(1)法定福利厚生、(2)非法定福利厚生、の二つに大別される。企業からみれば、従業員の労働提供への見返りとして、賃金以外の手段で給付を行っているのであり、非賃金労働費用と理解できる。
筆者の主張は、一部を除いてこれら二つの福祉から企業は撤退してよく、したがって、企業の対労働給付は賃金だけにしてよい、というものである。なぜ企業は福祉から撤退してよいか、その根拠をここで具体的に議論してみよう(詳しくは拙著『企業福祉の終焉』中公新書を参照)。
福利厚生費を賃金として支払うべき理由
まずは非法定福利厚生についてである。第一に、これら非法定福利厚生の存在意義は、従業員の長期就労に期待し、かつ会社に忠誠心をもってもらうための手段ということにあった。しかし現代は、従業員が一つの企業に長期雇用されることの価値を、労使ともにさほど認めない時代になっている。リストラと称する解雇が横行し、かつ従業員の転職志向も高まっていることからも、それは明らかである。
第二に、非法定福利厚生は企業規模間格差が大きすぎた。いわば大企業しかこれらの福祉を提供する余裕がなかったのであり、中小企業で働く人はそのサービスを享受できなかった。福祉に不平等があるのは好ましくないとする立場からは、非法定福利厚生は容認されにくい。
第三に、たとえ大企業であっても、パートタイマー、期限つき雇用労働者、派遣社員といった非正社員は、これら非法定福利厚生から排除されているのが一般的であり、これも不平等のシンボルとなっている。現代の日本企業では、企業規模を問わずこれら非正社員の数が激増しており、福祉における格差はますます拡大している。
第四に、労働者の側も、福祉を企業から半分押しつけの姿で受けるよりも、自分の好みに応じて住宅を選んだりレジャーを楽しんだりする方が個性の時代にふさわしい、と判断する人が多くなっているのではないか。さらに、退職金を企業退職後に受領するのではなく、退職金への留保分を現役労働中に賃金として受け取ることを好む人の数も増加している。
第五に、企業の存続期間は一部を除いて、短期間になっている。退職金制度や企業年金制度を例にすれば、これら二つの制度の権利と拠出分を労働者が次の企業に持っていくには、複雑な事務が必要である。日本において企業年金のポータビリティが導入されにくいのは、これが障害となっているからである。
これらの理由により、非法定福利厚生は役割をほぼ終えていると判断する。したがって、企業はこれらにまわしていた労働費用を、従業員に賃金として支払う方法に変換するのがベストである。
収益を上げ、高賃金を払うのが社会的貢献
次は、法定福利厚生についてである。年金、医療、介護、失業、労災などの社会保障制度において、企業は労働者とともに保険料を負担しているが、失業と労災を除けば企業は保険料を支払う必要がない、というのがここでの主張である。その根拠を述べてみよう。
第一に、年金、医療、介護の給付財源としては、税収を用いる方が経済効率を高めるのに最適である、との経済学上の根拠がある。社会保険料として現役の労働者のみから徴収するのではなく、国民全員から広く薄く税を徴収する方策のほうが、資源配分にゆがみを与える効果が小さいので、経済効率、あるいは高い経済成長にとって有効なのである。
税収としては消費税が好ましく、その点については拙著『消費税15%による年金改革』(東洋経済新報社)で、具体的に提案している。年金等の給付財源として税収を用いるということは、財源を保険料に求める制度からの離脱を意味するので、企業は保険料を支払う必要がなくなる。
第二に、年金給付と介護給付は労働者が引退してから発生する人生上の事象である。これについては、なぜ企業が従業員の引退した後の個人の生活まで面倒みなければならないのか、という素朴な疑問がある。自営業者はすべてを自分で負担している。労働傷害や病気は現役の労働期間中に発生することなので、企業が面倒をみる理由はまだあるが、年金・介護はそれとは異なる。
第三に、企業の存在理由は、ビジネスにおける繁栄を目指して一国経済を強固にするためにある。生産を伸ばし、収益を上げ、雇用を確保し、従業員にできるだけ高い賃金を支払うことが、企業の最大の社会的貢献である。非法定福利厚生の提供にあれこれ苦慮したり、法定福利厚生の提供によってビジネス活動に支障が生じるなら、それは企業本来の目的から逸脱したものとなる。
普遍的な福祉を行えるのは国家しかない
以上が、企業が法定福利厚生からも撤退してよい、とする主張の根拠である。では、企業が福祉から撤退すれば、誰が担い手になるのか。それが次の論点である。選択肢は(1)本人、(2)家族、(3)国家の三つである。
(1)の本人が担い手になるとは、自立に期待するということである。病気や年金は自分の責任で準備せよ、ということであり、福祉について自立を原則とするアメリカ型の制度である。公的保険制度ではなく、民間による私的保険制度に依存する制度といってもよい。
家族は「福祉元年」以前の日本ではもっとも重要な担い手だったので、(2)は古き良き時代に戻れ、という主張につながる。年老いた親の経済支援、あるいは病気・介護の面倒は家族の役割となるということである。
(3)は福祉を社会的に行うことを意味する。
本人、家族、国家のうち、筆者の考える最も望ましい担い手は国家である。なぜなら、自立を求めるアメリカ型の制度は、福祉を享受できる人とできない人の差が大きくなりすぎる欠点がある。さらに、現代の日本では、家族に昔のような役割を期待することはできない。日本は一九七三年に福祉の社会化を既に選択しており、家族は大きく変容した。もはや昔に戻るのは困難であろう。
最後に残るのは国家しかない。国民一人一人に普遍的なサービスを、その人の職業、働いている企業の規模、性別などと無関係に提供できるのは、政府だけである。財源に税収を用いれば、負担も公平になる。さらに、すでに述べたように、経済効率の向上に寄与する。その他にも政府を支持する理由は多くあるが、興味のある方は、拙著『安心の経済学』(岩波書店)を参照されたい。ただし、社会保険庁に代表されるように公務員の不祥事が続けば、日本人は国家を信用しなくなる。案外(1)の本人案(すなわち自立策)を選択するかもしれないことを、最後に指摘しておこう。
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